白夜行/東野 圭吾/★★★★★


公開前に原作を読んでおかないと負け、という謎のマイルールがあります。そしたら普通に考えて人生丸ごと負けまくりじゃんと思われるかもしれませんが、マイルールならではの臨機応変っぷりで精神的にバランスを保っておりますのでご心配には及びません。大丈夫です。私は元気です。勝ち負けのトータル的には今のところトントンです。

さて『白夜行』ですが、ドラマ化されて来年あたまから地上波で放送されるというので、なんとしてもオンエア前に原作を読了しようと決めて読み始め、予告どおり読み終えました。別にオンエア観るわけじゃないんですけどね。むしろ観ませんけどね。そもそもうちにはテレビがない。

この作品に限ったことではなく、私は自分が『良い』と思ったものが他のメディアに変換されるのがイヤです。いい作品が形態を変えて広まることはいいことなのだけれど、その変換の際に品質が大きく劣化するように思えるのです。元がどんなに良くても、劣化したものを大量にばら撒いても意味がない。むしろ逆効果。これは私の偏見なのかもしれませんが。当然、星の数ほどの原作が映像化されているわけだから、そのままのイメージで映像化される成功例もあるし、逆に原作はそれほどでもないけれど映像化したらすげー良くなったという作品もあるでしょう。無知ゆえに例を知りませんけど。ちなみに、個人的に一番嫌いなタイプの変換は「テレビドラマ→ノベライズ」です。

まあとにかく何が言いたいかって、勝手に言いたいこと言うと要はドラマのキャスティングが納得できないってことです。とにかくあれをあのキャスティングでやろうと決めた人たちの作るドラマには共感できない。じゃあ誰にすれば良かったのかなんてミもフタもない話ですけど。私の脳内に存在している桐原や笹垣のイメージを、山田孝之武田鉄矢といった共通言語で置き換えるには無理がありすぎたとしか。たとえば読者アンケートでキャスティングができたら、大多数の人のイメージする人物像に近づくだろうか。

つかドラマ観てないんでとても偏った考え方だと思いますごめんなさい。DVDがレンタルで出た頃まだ覚えていて、そのときたまたま気が向いたりしたら観てみっかなぐらいには考えてます。

さて、本の感想からだいぶ逸脱しているというか本の感想をひとことも述べてませんね。一言で言うと、とても面白かったです。19年もの年月が高速で流れていくので、随所に時事ネタをガイドポイントとして織り交ぜてあるのが若干うっとおしいけど、昭和40年代後半からの日本の歴史をダイジェストで見る感じなので、「へーなるほどあの時代かあ」なんて思ったのも確か。コンピュータがどんどん進化していく様なんて面白い。

桐原亮司と唐沢雪穂、もっとも重要な登場人物である彼らの主観は物語の中ではまったく描かれていない。彼らをとりまく人たちの感覚がパッチワークされ、おおかた人物像が見えてくるのだけれど、<ネタバレ>結局のところ真相は誰にもわからない。特にラストの桐原と雪穂のあの別れ方は壮絶。その不気味な読後感は何ともいえない。犯罪者であるはずの桐原に、「逃げ延びてほしい」と思ったのはなぜなんだろか。雪穂にはそう思えないのだけれども。桐原の死に際があっけなかったからだろうか。</ネタバレ>この2人はもちろんのこと、登場人物たちの人生がそれぞれに描かれている様子はまるで、どっかのお寺の本堂に灯してある多種多様の大量のろうそくのよう。

あと関係ないけど馳星周のあとがきがなんか良かったので、馳星周の作品を読んでみようかなと思いました。究極のハードボイルドというイメージで今までずっと食わず嫌いしてきたのですが。どうなんですか。それこそ好みの問題ですか。