いつか王子駅で/堀江 敏幸/★★★★★

読みながら、これはすごくいいものだ!と何度も実感していた。
主人公の青年が王子駅周辺をブラブラして暮らしているさまと、彼の気に入っている本のこと、彼を取りまく人々の日常。取り上げる本の種類や言葉の言い回しの感じから、てっきり大正とか昭和初期とかそういう時代の物語だと思い込んでずっと読み進んでいたのだけど、実はごく最近の話だったっぽくて驚く。

ここで取り上げられている本や作家たちを、恥ずかしながら私はどれもこれも知らないのだけど、簡単なあらすじや、それを読んだまた別の作家の感想などが引用されていて、それがなんともみずみずしい文章ばかりで、その具合がすごく良い。これほどまでに日本人の微細な心の動きやわびさびを端的に表せるなんて、そういう文章を書ける人ってやっぱりすごいし、それをピンポイントで引用できるセンスも然り。

彼の周囲の人たちもいきいきしている。墨の入った判子職人がどこかの山奥の旅館の障子に試し捺しした印の話や、預かっているカステラや、家庭教師の教え子である陸上部の女の子の笑顔と白い歯や、トム木挽きや、旋盤をまわす職人さんの話や、スナックのママさんがいれるおいしいコーヒー。他と関わらなければ絶対に得られない情報や経験が、そこにはたくさんある。そういう彼の生活がとっても素晴らしいものに思える。

そもそも、私は上京してからこっち15年以上経つけれど、ご近所さんと親交があったためしがない。むしろなるべく関わらないようにしきてきた。私は「点」としてのみ存在し、ほかの点とつながることを避けてきた。だから、都会なのに彼みたいにたくさんの点とつながる生活があると知って驚いたし、自然にそういう暮らしができる彼や場所をうらやましく思う。

私の知らないところで、世の中には良いものや人がたくさん存在しているのに、そのほとんどに出逢えないまま一生を終えてしまうなんてなんだかもったいない。もっともっと時間が欲しいし、本も読みたいし、経験したいと思った。そして、人と出逢って親交を深めるというのも、また素晴らしいことかもしれないとなんとなく思う。悪いものに出逢ったときの面倒くささが嫌でずっと避けてきたけれど、そういう生活もいいかもなあ、なんて思ったりもした。