麦ふみクーツェ/いしいしんじ/★★★☆☆

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彼の本はいつも、予想外のところで涙が出てくる。いしいしんじは不思議な作家だ。ところどころの何気ない台詞にぐっときてしまって、しばらくそこから動けなくなってしまう。心臓をつかまれたような気持ちになる。

ねこ、と呼ばれるのっぽの男の子は、いつも自分にしか聞こえない麦ふみの音と、自分にしか見えないクーツェとともに育った。父親は数学の証明にのめりこむことだけが生き甲斐で、ねこはいつもティンパニストのおじいちゃんと一緒だった。この本には、その3人の激動の人生が描かれている。
いしいしんじの物語にはいつも不思議な人たちがたくさん出てくる。誰よりも背の高いねこ、体の不自由な用務員さん、目の見えないボクサー、背むしのチェリスト色盲の売春婦、2千年の間生まれ変わりを繰り返す男、詐欺師。『プラネタリウムのふたご』を初めて読んだときもそう感じたけれど、彼の作品に漂っている不思議で奇妙な流れの中に、私はどんどん引き込まれていく。映画『デリカテッセン』のような、『ロスト・チルドレン』のような、とにかく薄暗くて気味の悪い世界観は、たちの悪いお酒に酔ったような気持ちになる。気持ちがいいのか悪いのかわからない。けれどそこにどっぷり浸かっていたいような気持ち。
そしてそこに時々差し込む一筋の光みたいなものが、心の真ん中を焼きつける。じゅ、って音がしそうなくらいに。そして知らないうちに、悲しくもないのに鼻の奥がつんとしてくる。

用務員さんがずっとスクラップしてきた新聞記事のファイルには、この世の中で起きる様々なできごとがたくさんつまっていた。石を吐き出して死んだサーカスの女芸人、深い霧の中で見た恐竜、ねずみの楽園、スカンクのライターを持った女、おうむとあめ玉の話など、世界中のありとあらゆる不思議で哀しいできごと。ねこは、それを売春宿の女たちにひとつずつ、ゆっくり語って聞かせる。ねこの中に少しずつ蓄積されてきたものが、こういう形で実を結ぶとは思ってもみなかった。すべてはちゃんと繋がっている。自分が生まれてから経験したことで無駄なことなんて何ひとつないのだ。そして、ねこは麦わらのタクトを振る。誰よりも高いところで。

へんてこは、生きていくために何かをどんどん研ぎすましていく。それは必要なことでもあり、自分に誇りをもつためのものでもある。
私は生まれてから何を研ぎすまして生きてきただろうか。そしてそれを、正しく使って生きてきただろうか。そういうことをなんとなくぼんやりと考えて、自分の人生を振り返るような、そんな本でした。
すべての謎が解けていくラストシーンはとても壮大で、本当に映画を観ているようでした。
私のもっとも好きないしい作品は『プラネタリウムのふたご』でそれは不動なんだけど、これはこれでとても素敵な話。