わたしには家がない/著:ローラリー・サマー、訳:青木純子/★★★☆☆

わたしには家がない―ハーバード大に行ったホームレス少女 詳細を見る


ハーバード大に行ったホームレス」というサブタイトルにまんまとハメられたー。実話です。要は自伝です。
著者のローラリーは私の予想していたホームレスとはまるで違っていた。彼女の母親はシングルマザーで、子供と一緒にいてあげたいからという理由で仕事が続かない。なので生活保護を受けているのだけど、そのうちアパートの家賃が払えなくなって追い出され、それからは親戚や友だちの家を転々と渡り歩き、行政の運営するシェルターに寝泊りするようになる。そういう意味でのホームレス(=定住する家がない)だ。残飯をあさったり、路上で寝たり、物乞いをしたり、異臭を放っているわけではない。

ローラリーは幼少の頃から母親が与えていた本のおかげで、同年代の子供たちよりも読み書きの能力がずば抜けていてたため、授業が退屈すぎて学校に行くのをやめた。母親がいればそれでいいと思っていた。たとえ貧乏で食べるものに困っても、買物はすべて教会のバザーでも、家財道具一式を毎日持ち歩いていたとしても、交通費がなくて半日歩き通しだったとしても、物を手に入れる方法が万引きしかなくても、それが子供の彼女にとっては日常だし仕方のないことだった。

そんな、普通の子供が体験することはまずないであろう生活の中で育ち、彼女はシェルターでの出会いを経てわらしべ長者のようにハーバード大学の合格通知を手にする。

上流階級のお坊ちゃまお嬢様が、週末にはパーティーを繰り広げたり演奏会にヴァイオリニストとして出演したり、長期休暇には別荘のステイを楽しんだりしながら、伝統ある天下のハーバードで学び、ハーバード大卒という肩書きを手に入れた紳士淑女となって巣立っていく。エリート中のエリートを育てる学校です。すいません陳腐なイメージで申し訳ないのですが、これはあくまでもイメージです。ハーバード大の方がいたらごめんなさい。

まぁそんな中、貧乏&ホームレスのローラリーは非常に浮いていて、あらゆる場面において貧富の差を見せつけられる。奨学金と寮生活でなんとかやっていけるとはいえ、やっぱりバックグラウンドの生活水準が違うのだ。クラスメイトたちの素敵なエグゼクティブパパやセレブママと自分の無職生活保護家ナシのママを比べたときの、いてもたってもいられなくなる気持ち。幼少の頃は大好きなママと思っていられたけれど、多感な10代後半にもなればさすがに自分が人とあまりにも違いすぎることがわかってくる。

シェルターに泊まり損ねたといって、家財道具一式抱えて24H営業のファミレスでおかわり無料のコーヒーだけで居眠りをしながら朝を待つ母(シェルターは1回1泊までなので、連泊の場合は一度チェックアウトして再度列に並んでチェックインしなおさなければならない)を、どうすれば誇らしいと思えるのか。母のみすぼらしさを呪い、そんな考えを持つ自分を呪い、自分の育ってきた環境を呪うだろう。

彼女は大学の4年間の中で、レスリングに打ち込んだ。なぜここでレスリングなのかはとても謎なのだけれど、この個人競技にストイックにのめりこみ、体を酷使し、耐え忍び、自分の限界に挑戦することは彼女に向いていた。彼女の育ってきた環境で培われたものを生かすことによって彼女は精神的にも肉体的にも強くなり、コンプレックスという壁を乗り越えた。そして母親の存在をありのまま受け入れることができるようになった。父親も探し当てることができた。人は人、自分は自分と割り切った。

私は両親も健在だし、実家もある。けれども彼女のように割り切ることができないでいる。さすがに私はいい歳なのでそれを表面化することはないけれど、やはり生まれ持った自分のバックグラウンドは変えることもできないし、私の中にあるコンプレックスがなくなることはない。おそらく彼女はコンプレックスを克服したのではなく、ある意味妥協したのかもしれない。激動の人生の中で現実とうまく折り合いをつける方法を学んだということなのかもしれない。
かく言う私は30年生きてもなお現実逃避を続けているのですけれども。妥協なんてできないよ!(そのせいで死ぬまでこのままかもしれませんが)